「窪塚洋介 ネイティブアメリカン紀行 魂に触れる旅 聖なる大地へ」(TBS)を見て by Mory
2005年 09月 15日
タレントの窪塚洋介が疑似的にナヴァホ族になって聖なる泉を訪れる。そのためにナヴァホになる儀式をするのだが、それを司る長老は神聖な儀式の撮影をやめるように促す。しかし、カメラは回り続ける。しびれを切らした長老は窪塚に「自分の聖なる儀式というとても個人的な体験を撮影させても良いのか?」と尋ねる。窪塚は「撮る撮らないではなくて、自分の気持ちの問題だから」と言うような答えをする。
自分の気持ち・・・?では、聖なる儀式を撮影されるナヴァホの人々の気持ちはどうなのか?窪塚が本当に何を考えていたのかは分からない。ただ彼は自分は単なる電波芸者であることを宣言し、テレビはそのあつかましさをまた垣間見せただけである。
こんなとき思い出す文章がある。
「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」 (星野道夫『旅をする木』より)
自分はこんなすごい所に行ったんだ、自分はこんなすごい体験をしたんだ、と語るよりも、その体験によって自分自身を変化・成長させて行くほうが、ずっと人々の心に訴えかける。取材は取材、自分のことは別のことと分けるよりも、その取材体験を消化し取材者が変わって行けば、この世界はより良い方向に変化して行くと思うのだが。