聴こえてきた物語を紡いで by Mory
2010年 10月 03日
ドキュメンタリー映画『TOKYO アイヌ』の完成公開試写会で配布されている資料に、監督である私の言葉が掲載されている。
ここで紹介する。
2007年初頭、「アイヌの映画を撮影してくれないか」と依頼された時、私は「アイヌの若い人でやる人はいないのか?」と問いかけました。何も知らない外の人間が撮るのではなく、自分たちでコミュニティの中でぶつかり合いながら作ることのほうが、より大きな実りになると考えたからです。
しかし、アイヌの中にまだそのような人材はいませんでした。
私は自分の役割として、この仕事を引き受けました。資金がどの程度集まるかも分からない、アイヌのことも何も知らない。リスクを承知の上で、ひとりで撮影を始めました。
被写体は、浦川治造氏。バイタリティあふれる彼の行動に寄り添い撮影を進めながら、どのような作品にまとめて行くかを考えていました。
8月。芝公園で東京イチャルパの撮影を行う。明治初期に北海道から連れてこられ、日本人となるための教育を受けたアイヌがいたこと、その中の5人が亡くなったことを初めて知りました。そして彼らとその後関東に移り住みこの地で亡くなった人々を追悼する、多くの首都圏在住アイヌの姿を初めて見たのです。
私の中のアイヌの世界が、浦川治造氏ひとりから首都圏アイヌまで拡大して行った瞬間でした。
イチャルパの中で、亡くなった人々の名前を読み上げるシーンがあります。北海道から連れてこられて亡くなった人々。さまざまな事情で北海道を離れ、関東に移り住み亡くなった人々。その人々の名前がこだまする中、今を生きるアイヌの人々が、過去と現在を結ぶ見えない糸を紡いでいる。
その時、微かだが確かに、物語が聞こえてきました。かつて聴かれることなく、眠っていた物語。いや、小さな声では語られていたかもしれないが、私たちが聴こうとしなかった物語が。その声にただ耳を傾ける、深く聴き入る映画にしよう。
この時、「TOKYO アイヌ」のイメージはでき上がりました。
製作委員会は前途に待ち受ける困難を承知で、この映画を「TOKYO アイヌ」として再出発することに賛同してくれました。
この映画を作る上で、決めたルール。
ナレーションは入れない、BGMは入れない、答えは用意しない。
この映画は、アイヌが語る物語に深く耳を傾けるもの。ナレーションを入れて、さも分かったような解釈を観る者に押し付けない。感動的な音楽を付けて、さあここで感動しなさい、などと観る者を誘導しない。
現実は単純なものではない。 矛盾もあるし、かんたんに割り切れるものでもない。一人一人の中に、違った現実、解釈があっていい。その違いをそのまま受け入れることが、豊かな世界をつくり出して行く。
そんな思いから、自らを縛ったルールでした。
数々の困難を乗り越え、3年半の月日を経て、ようやくこの作品は完成しました。ご協力頂いた多くの方々、最後まで諦めずサポートしていただいた製作委員会のみなさんに、深く感謝します。
完成したこの作品は、私の手を離れ、次の世代へと手渡します。この続きの物語を聴く者が現れることを祈って。