アーミッシュ、あるいはメノナイトについて その2 by Mory
2006年 11月 25日
翌朝出発する準備をしていると、その家のおじいさんがやってきて、これから先旅を続けるぼくを守ってくれるようにと、自分が使っていただろう古い小さな聖書をぼくにプレゼントしてくれた。敬虔なプロテスタントとしておじいさんはその聖書を手に、農作業の合間合間に何度祈ったことだろう。ぼくは言葉にならないお礼を言って、聖書を受け取った。そして、その聖書のおかげか、おじいさんの祈りのおかげか、そのあとぼくは無事に旅を終え日本に戻ることができた。クリスチャンではないぼくだが、その聖書はもちろん今も大切にしまってあり、時折取り出してはその旅のことを思い出す。
そのあとぼくはアーミッシュの住む地域を訪れた。何も調べずにやってきて移動する足がなかったので、観光客用のツアーバスに乗ってアーミッシュが住む村々を回った。そしてその日一日は、とても居心地の悪い思いをした。それはまるでサファリツアーのようだったのだ。
見る対象はアーミッシュの人々。ぼくらはツアーバスから眺める観光客。ガイドのおじさんが、「あれがハリソン・フォードが座ったブランコで・・・」などと説明している。同じ人間の暮らしをサファリパークにいる動物のように見物していいのだろうか。ぼくはアーミッシュの人々に最後までカメラを向けることができず、彼らの姿を真正面から見すえることができなかった。
彼らは黒い衣服に身を包み、馬車に乗り、泰然としていた。人間としての尊厳をしっかり持っていた。そのような人間に初めて出会ったぼくは圧倒され、薄汚い姿で放浪している自分をとても小さく恥ずかしく思った。
今思えば、ぼくは自分が生まれ育った土地が嫌いで、目を外へ外へと向けていた。そして、外のことを知れば知るほど、根っこを持たない自分という存在の空虚さに気がつく。そんなぼくには、その土地に根付き代々変わらぬ暮らしを生きているアーミッシュの姿がとてもまぶしく映ったのだろう。
彼らが未だ昔と変わらぬ暮らしをしている秘密は何だろうと考える。強固な信仰心だろうか?果たしてそれだけなのだろうか?
遠く南米の地まで逃れ、決して現地の人間と交わることをせず、その信仰と暮らしを守り続けてきたメノナイトの人々。そして物質文明の極地、アメリカで生きるアーミッシュの人々。ある意味とても排他的な人々。しかし、彼らは自分たちと信条を異にする人々に争いを吹っ掛けることはしない。自足している人々である。
世界の先住民が文明化され暮らしを変えていく中で、もしかしたら彼らが最後まで文明化をせずに暮らしている人々になるのかも知れない。そんな印象さえ抱かせる強さを、彼らは持っている。